『人類を前に進めたい』 by 猪子寿之
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読んだ/観た日:2020/07/05 - 2020/07/12
★思想・哲学/自己啓発・新書/IT総合:4.2
深さ/人生への影響度:4.5
新知識/新しい気付き:4.0
分かりやすさ:4.0
他の人におすすめ:3.8
あらすじ/概要
チームラボはなぜ「境界のない世界」を目指し続けるのかーー
チームラボ代表・猪子寿之氏と、評論家・宇野常寛との4年間に及ぶ対談が、ついに書籍化!
2015年からの4年間、チームラボ代表の猪子寿之氏は、評論家・宇野常寛を聞き手に、展覧会や作品のコンセプト、その制作背景を語り続けてきました。
友人である二人があらためて対談をすることになったのは、宇野が2014年に佐賀で開催された展覧会「チームラボと佐賀 巡る! 巡り巡って巡る展」を観に行ったことからです。
対談は、チームラボが国内外で行ってきた展示を、二人でともに観ながら(ときには大幅な脱線も含みながら)、そのアートの目指すところを言語化していくものになりました。
お台場・チームラボボーダレス、豊洲・チームラボプラネッツ、御船山楽園「チームラボ かみさまがすまう森」など国内の展示だけでなく、ニューヨーク、シリコンバレー、パリ、シンガポール、上海など、共に多くの地を訪れた二人の対話を通じて、アートコレクティブ・チームラボの軌跡を追う1冊。
書籍では、その章ごとに、猪子氏自らによる展示会やアート作品のコンセプト解説が掲載されているほか、チームラボのアートをかたちづくるコンセプトマップ、猪子氏による解説「チームラボのアートはこうして生まれた」も収録しています。
※全ページ フルカラー
目次
CHAPTER1 「作品」の境界をなくしたい
CHAPTER2 デジタルの力で「自然」と呼応したい
CHAPTER3 〈アート〉の価値を更新したい
CHAPTER4 「身体」の境界をなくしたい
CHAPTER5 生命と時間のスケールを知覚したい
CHAPTER6 「身体の知性」を更新したい
CHAPTER7 「地方」のポテンシャルを引き出したい
CHAPTER8 都市に未来を提示したい
CHAPTER9 境界のないものをテクノロジーで再現したい
CHAPTER10 「自然」の本当の美しさを可視化したい
CHAPTER11 「パブリック」と「パーソナル」を更新したい
CHAPTER12 「飲食」そのものをアートにしたい
CHAPTER13 「世界」の境界をなくしたい
CHAPTER14 人類を前に進めたい
補論 チームラボのアートはこうして生まれた(猪子寿之)
図説 チームラボのアートをかたちづくるコンセプトマップ
あとがき(宇野常寛)
読書/鑑賞中メモ
CHAPTER1 「作品」の境界をなくしたい
「猪子さんは人間の自己決定には興味がなくて、運命論的に世界を祝福できるかどうか、にしか興味がないんだろうな、と思った。」
「まあ、僕らは創業期からずっと、物理空間を拡張したいと思っていたんだよね。たとえばシリコンバレーというのは『脳の拡張』をやっていると思うんだよ。ー中略ーだから、彼らのつくるデジタル領域では『自分の意志』が必要なんじゃないかな。」境界をなくしていくということは、言語的な世界から脱却して、モノ自体に近づくということ。
「チームラボのアートも運命論のレベルで世界を肯定したいというわけだね。」
CHAPTER2 デジタルの力で「自然」と呼応したい
「つまり、猪子さんは従来の、モノを中心としたアートに対して、加工しすぎることで自然の持つ情報量を殺す方向に行っていると考えている。ところが、その一方で現在の情報技術を使えば、自然が持っている情報量をそのまま活用したアートができてしまう。」
宇野さんって人は自己肯定が低いのかな笑 世界を醜いと思っている人は、自分自身を醜いと思っている。なぜなら醜いというのは定義であって、性質では無いから。つまり、”宇野さんが”世界を醜いと定義しただけであって、世界が元から醜いわけではない。まあ宇野さんを知らない僕が言うことじゃないな…宇野さんにとっての醜いと、僕にとっての醜いは違う。僕が宇野さんを自己肯定感が低いのかもと定義しただけであって…というブーメラン。何回宇野さんいうねん。
CHAPTER3 〈アート〉の価値を更新したい
「『自己という境界が曖昧になって、自分が世界の一部であるかのような感覚になる』ということが、ポジティブで気持ち良いことであるようなアートをつくりたいのかもしれない。」無我に近い感覚なのかもしれない。「つまり『そもそもこの世界には境界線というものはないし、世界の外側と内側という概念もない。だからこそ、当然自分も世界の一部なんだ』という感覚を、猪子さんは物の中に入るアートによって実感できるようにしたいんじゃないかーそんな気がするね。」 「だって、テクノロジーの力を使うことで、我慢して他者を受け入れるのではなくて、他者の存在を単純に気持ちの良いものにしているわけだからね。」
「結局、僕はアートを通して『自分は世界の一部でしかない』という体験を無意識的にさせたいんじゃないかと思うんだ」
CHAPTER4 「身体」の境界をなくしたい
「物理的には自分の肉体と世界には境界があるけれども、でも本当は、世界や他者と自分は連続しているものです。そういう感覚をアートを通じてつくれたらと思っています。」
「世界や他者と自己の境界が曖昧になって、どこにいるかもわからないのにもかかわらず、自分が世界の一部であるかのような体験をしてもらいたいと思うんだ。」
CHAPTER5 生命と時間のスケールを知覚したい
「実は人間も二度と戻らない時間を生きていて、二度と同じ景色を見ることはないんだけど、そのことをあんまり自覚していない。」
CHAPTER6 「身体の知性」を更新したい
「美術館や映画館で、人は立ち止まり、身体を一箇所に固定して作品を鑑賞します。それは映画や絵画が、視点を固定してしまうレンズやパースペクティブを前提に発展したからです。一方、僕たちが考える『超主観空間』では、走り回りながらでも踊りながらでも作品を観ることができます。超主観空間を模索し始めた頃から、身体が動いている状態で世界を認識することに興味がありました。そこから、身体を伴っていて、インプット情報が極めて多い状況での知性とは何か、ということを考えるようになったのです。」
「従来の知性というのは、まさに美術館で絵画を観る時のように身体を固定して、他者も意識してなくて、インプットの情報量がほとんどない中で大脳をフル回転させる知性なんだよね。」西洋的な知性は、区切って止めて定義して個別化して抽象化することによって得られる気がする。そういうことかな?対して東洋的なというか身体的な知性は、連続的で無限で定義ではなくモノ自体であって個別かも抽象化も受け付けない気がする。
「美しいものだとか良いもののような『〜である』ことではなくて、あくまでも人間が世界と関係『する』関わり方に興味があるわけだよね。」
「たぶん僕は個体より、状態とか現象が好きなんじゃないかな。」西洋的な物体主義と、東洋的な状態主義のどちらがいいということではなく、2つはどちらも重要な観点なのに、今は西洋的な思想が強すぎるから、というよりそれが全てだと思われているフシがあって、だけどその限界を、窮屈さを感じる人々による揺り戻しが起きている気がする。
「おそらく今の世の中って『止まる』か『走る』かの二択になってしまっている。その中で、人類は『歩く』ということの持つスピード感を失いつつあると思うんだよね。」
CHAPTER7 「地方」のポテンシャルを引き出したい
CHAPTER8 都市に未来を提示したい
CHAPTER9 境界のないものをテクノロジーで再現したい
「デジタルという0と1で構成された『境界のある世界』。それを使ってアナログな『境界のない世界』を再現する。これはチームラボの作品全体に通底する一つの逆説だよね。」現実世界は無限の粒度を持っていて、人間はその知性によってそれらを分類し、粒度を下げている。たいしてデジタルの世界では、もともと01で粒度の固定されたものを組み合わせて、無限の粒度へと挑戦している。
CHAPTER10 「自然」の本当の美しさを可視化したい
CHAPTER11 「パブリック」と「パーソナル」を更新したい
「『バラバラのものをひとつにしてつなげる』のではなく、『バラバラのものをバラバラのままつなげる』公共空間が出現している。これって、新しいパブリックの概念を体現していると思う。」「今まではパーソナルなものとパブリックなものに境界があったと思うんだよね。そんな中で、アートの力によって、パーソナルな存在すらもパブリックとして価値が上がるものの存在に変換できる可能性に気づいた。」
「これまでは、プライベートが優先される領域と、パブリックが優先される領域がはっきりと分かれていた。ー中略ーだからパブリックな場というのはプライベートな自分を我慢して殺すことが要求される場所になっていた。でもこの考え方には当たり前だけど限界があって、まず十分なパイをシェアできる状態じゃないと、とても耐えられなくなる。ー中略ー対して、猪子さんが今やろうとしているのは、プライベートとパブリックの境界線を消失させることで、街の公共空間という極めて限られた空間をゼロサムゲーム的なシェアから『解放』するということだね。」
CHAPTER12 「飲食」そのものをアートにしたい
CHAPTER13 「世界」の境界をなくしたい
CHAPTER14 人類を前に進めたい
「人は、都市の中では、自分は独立して存在できていると錯覚しがちです。自分と世界との間に境界があるかのようにすら思ってしまう。しかし本当は、そこに境界はなく、自分の存在は世界の一部であり、世界は自分の一部であるのです。」
補論 チームラボのアートはこうして生まれた(猪子寿之)
図説 チームラボのアートをかたちづくるコンセプトマップ
あとがき(宇野常寛)
感想/考察
すごいよかった。ここまで明確に言語化/目的化されてると思ってなかったので、やっぱりアミューズメントというよりはアートなんだなと思った。言語化嫌いなんじゃなかったっけって思ったけど、たぶん嫌いなんじゃなくて、言語化の限界を知っているというだけなんだろうな…
アートをモノ自体に回帰するインタフェース/ツールとして捉えているのかな
そして東洋的/仏教的な世界観にすごい親和性の高い思想なんだなと思った。なんていうか日本は終わってるみたいな考えの人だと思っててちょっとがっかりしてたんだけど、この本を読む限りではそうじゃなくて、東洋、そして日本の持つ可能性を信じているというか、そもそも思想の根本に日本的なものがあることをすごく意識しているし、受け入れているし、結局日本好きなんじゃんと思って安心した。日本というくくりではないのかもしれないけど、逆に言うと日本というくくりを嫌っているわけでもなさそう。そもそもそういうくくりがないのか。境界がないからな。僕自身が日本というくくりを意識しすぎているのかもしれない。
僕は日本人で日本が嫌いな人をあまり信用してない。そういう人は大抵自己肯定感が低いか、あるいは海外のいいとこだけをみて知った気になっているかのどちらかの場合が多い気がするから。自己のアイデンティティを否定的に見てしまう人間は、自己受容に失敗しており、その原因を外部にもとめてしまっている場合が多い。ただ猪子さんは日本を否定しているわけではなく、ただ状態としての日本を知覚しているだけという感じがする。でも自分の国を嫌いな人を信用してないっていう思考自体に境界性が含まれている気がするな。境界をなくすというはすごく難しい。なぜなら基本的に現代人は言語によって物事を理解しようとするから。理解のためには言語が唯一のツールだという思いからなかなか抜け出せない。
仏教的だと感じたところはいろいろあるが、一つあげるならば境界がない世界を目指しているところ。これは無我の境地に通ずるところがあると思う。僕の中では仏教的なというか東洋的な世界観では、言語的な支配が曖昧で、物事の境界が曖昧、そしてモノ自体を知覚することに重きをおいていると思う。それは自分自身にも言えて、たぶんアイデンティティっていう単語が未だにカタカナのまま使われているように、自己という概念すらもそこまで明確に定義して来なかったと思う。結局、本来は存在しない自己という境界を西洋的に定義することによって得られるメリットももちろんあるが、それはあくまでもツールであって本質ではない。本来自己なんてないのだ。自己なんてものを区切るから、たとえば消滅=死が、必要以上に恐ろしいものになる。だからこそ、それを救う神が必要になる。だが、仏教に神は存在しない(よく勘違いしている人がいるけれど、原始仏教はどちらかと言うと実践的な哲学/心理学であって、信じれば救われるという宗教ではない。そして仏は神ではないし、死後の世界も特に定義していない。とっても現世的な教えだと思う。そんなすごい詳しいわけじゃないけども。)。無限連鎖的な世界の中で、自己が世界の一部であり、世界が自己の一部であり、すべてがシームレスにつながっていて、何一つ欠けることができないものだと感じることができれば、死は反射/生物的な恐怖以上のなにものでもなくなる。この時間、空間を超え、善悪の彼岸で無我に至る感覚を体現するためのアートなのではないだろうか。いや、本来持っていたはずの無我を思い出すため、という感じかな。こういった感覚を思い起こさせるからこそ、チームラボのアートはどこか本質的に安心するのかもしれない。 あとは今の仏教の日本での扱われ方も似ている気がするな…原始仏教はかなり思想的/哲学的/実践的なのに、それが伝搬していくことで神秘的/宗教的/盲目的なもの、もっというとなんていうかミーハーな感じに変質していく。仏という状態が大事だったのに、仏という物が伝搬していくような感じ。チームラボもなんていうか体験という状態が大事だったのに、インスタにあがる写真が伝搬していく感じが、なんか親和性がある気がしておもしろい。(別にそれが悪いと言っているわけではなくて、何かが伝搬するという現象はおもしろいなっていうことと、状態を伝搬させるのは多分不可能なんだなって思う。実際に体験しないとダメなんだきっと。)
現代のピカソ。まあこういうのは過去の偉大な人物の二番煎じっぽいニュアンスでよくないかもしれないけど、わかりやすい例として。ピカソもパースペクティブの固定された絵画に限界を感じていたのではないか。体験としての対象を描画しようとしてキュビズムに至ったのではなかったか。ピカソがデジタルアートに出会ったらどうしていただろうか。いや、そもそもアートを志すすべての人間が、自分の体験を具象化する時に漏れていく何かを表現しようとして必死になるのかもしれない。
クレカの特典としての国家の形っていう話は面白かった。そうなったら面白いけど、そうなるほどには今の社会は崩壊していない(それはもちろん崩壊の定義によるし、実際崩壊という現象は存在せず、崩壊した、と定義する人間がいるだけだ)し、やっぱり境界があることによる安心感というポケットにはまり込んでいる人があまりに多すぎるのかもしれない。
宇野さんの言語化は天才的。言語化の天才の常として、やはり少し西洋的なパースペクティブ(パースペクティブ言いたいだけ)から抜け出せないところはあるが、本人たちも言っているように、相反する才能がお互いに補完し合う様は、まさに西洋と東洋が出会ったときのような嬉しさを感じる。
僕は境界のない世界を”発見”して、とても気持ちが楽になったわけだけど、特にそれを世の中に広めようとか、共有しようとか、他の人にもわかってもらおうなんて考えたことなかった。というかそれは超個人的な体験であって、共有できないと思ってた(とはいいつつわかって欲しい気持ちはあって、こういうのを書いているだろうけど)。けど猪子さんは、それを被対象者が無意識のうちに体験させるような装置を作り出している。どういうモチベーションなのか知りたいけれど、シンプルにすごいと思う。